「王はなるもの!」
今回の事故より、死者・行方不明者が多かったのが、1923年9月1日の関東大震災です。関東大震災は、死者・行方不明者は10万5千人余り。住家全半壊21万余り、焼失21万余りの甚大な被害を受けました。当時、震災によって新聞社も焼失。9月5日の夕刊まで一切の情報源が途絶えていたそうです。様々なデマが飛び交う中、国民は半ばパニック状態。そんな中でも地元のリーダー達がパニックを鎮静させ、国民も一致団結。冷静な対応でひとつひとつ対処したそうです。この国難に対して、挑み復興を成し遂げたたくさんのリーダー。その中でも中央トップにたちリーダーシップを発揮したのが、後藤新平です。
1923年8月25日に、加藤友三郎総理が急逝。後継に選定されたのは山本権兵衛。当時、大連立の挙国一致内閣組閣の最中であり、選任は難航。しかし、この関東大震災の甚大な被害と危機感から、国をあげて一致団結。組閣は進み、震災の翌日、9月2日に、第二次山本内閣が成立。ここで、内務大臣兼帝都復興院総裁となったのが、後藤新平です。
「大風呂敷」と言われた後藤新平は、大規模な東京の都市復興計画をぶち上げます。復興予算は、約13億円規模。当時の国家予算のほぼ1年分だったようです。後藤・原案では、30億円規模だったとも言われています。誰もが驚くような大規模計画であり、政界はもとより、財界などからも猛烈に反対され、結局5億7千万円の計画となります。
その後、太平洋戦争での敗戦に伴う東京の被害や都市計画について様々な批判を受けることになります。その批判の中には、後藤案の中にあり当時では想定出来なかった壮大なスケールのものもあり、実行しなかったことによる批判もありました。後藤新平は、得意の知見性と想像力により、たくさんのグランドデザインを政策として打ち立て、自ら中心となり実行して、日本を運営しました。その政策スケールの大きさから、ついたあだ名が「大風呂敷」の新平。
現在、「大風呂敷」と揶揄される程、具体性を伴うグランドデザインを描き、実行力があるリーダーがいるのでしょうか。他人に責任を押し付け会議ばかりして、出てくる案は具体性の乏しい理想論ばかり。義援金の配布もままならない状況なのに、自らの保身については、図々しくポジションに居座るような知恵だけは身につけているのです。
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王は、『就くもの』ではなく、「なるもの」です。
その座を守るためではなく、その座を賭けて挑み、その勝負の過程で認められて「なるもの」です。選挙で当選して任命されたら、リーダーになれたと思ったら、大間違い。国民は、単に結果に不満なのでなく、その過程の見てられない程のお粗末な対応に、不満を超え呆れ果てているのでしょう。王は、『就くもの』ではなく、「なるもの」です。これは、すべてのリーダーに共通ではないでしょうか。
作成日:2011年6月6日 屋根裏の労務士