コラム Column

「東山文化!」

先週、京都に出張に行ってきました。例年、冬の時期に仕事で京都に行ってきます。京都は日本で一番の観光都市。名所も多く見たい寺院もたくさんあります。しかし、出張に伴い事前に観光のことまで考えている余裕はありません。出張は、特に緊張感ある依頼が多く、事前の用意も膨大です。完全ビジネスモードになっています。

今回の出張もビジネスの件以外は、全く何も考えていませんでした。前日の深夜に京都に入り、午前中に無事に仕事が終わりました。緊張感が和らいでどっと疲れが出てきます。一方で開放感も湧いてきて、自分が現在京都にいることを認識してきます。京都の街を行先も決めずにブラブラと歩きながら、まだ見ていない世界遺産に行こうという気持ちが湧いてきました。

タクシーに乗り、運転手さんと京都の素晴らしさについて話して盛り上がっていたら、銀閣寺の改修工事が完全に終わっていると聞きました。完全に修復された銀閣寺を無性に見たくなり、今回は銀閣寺を見てきました。実は、3年前にも銀閣寺に行っています。境内には入れましたが、改修工事中でした。京都の寺院は、大規模な改修工事が始まると3年間ぐらいは、工事をしており、境内に入ることも出来ないことがあります。

銀閣寺は、すばらしい。いつまでも眺めていたい美しさです。観音殿や向月台だけでなく、最初の門から、庭の細部に至るまでどの角度から見ても、芸術的な美しさ。自然空間を巧みに取り入れた深い精神文化の造形。足利義政は、大天才です。

しかし、この大天才は、将軍としては歴史上まれにみるダメ将軍。更に、亭主としても、恐妻に何も言えないダメダメ亭主。応仁の乱を引き起こし、戦国時代到来の原因ともされる将軍です。

義政が将軍に就任したのは13歳のときです。もちろん、将軍とは名ばかり。権力はすべて取り巻きが行っていました。応仁の乱は、次の将軍の座をめぐる跡継ぎ争いが原因です。義政は男児が生まれなかったので、弟の義視に将軍の座を譲ると約束。ところが、約束したとたんに、男児を授かります。

元々、権力欲がない義政は、後継者には興味はなかったと聞きます。しかし、あの歴史上、最恐強欲・女帝が黙っていません。女帝、日野富子です。

富子の悪妻、恐妻にまつわる話は、いとまありません。男子に授からなかったときは、義政の乳母が呪いをかけたと言いがかりをつけて、育ての母を島流し。金欲旺盛で、米の投機をしかけます。当時、農耕技術の向上で力をつけてきた農民を借金づけにして暴利をむさぼり、生活を困窮させ悲鳴をあげさせます。守銭奴と言われた富子の個人資産は、70億とも言われます。

高い教養があり文化人であった義政とは正反対の性格。気が強く権力欲も旺盛。自分の子の将軍の座をめぐり、ついには戦争。応仁の乱を引き起こします。10年間も戦争状態で、京都は焼け野原。そんな混乱状態でも、ダメ将軍・義政は、妻には何も言えずに戦争の仲裁に入りません。

不毛な争いばかり起こす、野心家で口喧しい恐妻・富子から逃げるように、東山の別荘で別居生活をはじめ、東山文化を創リ出します。義政が育てた文化こそ、今でも私達日本人の美意識の中にあるものでしょう。控えめな気品をよしとする和の文化の原型です。

平安時代から続いた上品な貴族文化。鎌倉時代に生まれた武士の力強い文化。その二つを自然との一体感の中で見事に融合させます。精神文化を造形させ、東山文化を創り出すのです。東山文化の根幹となる、わびさびの美的感覚。この美的感覚は、中枢権力の衰退とともに、戦国の世に急速に日本中に浸透します。

義政は将軍としは体たらくでしたが、文化人として歴史上稀にみる大天才。恐らく、この大天才・義政の美意識や思想は、現代日本人のDNAレベルまで刷り込まれ、あらゆる分野で活かされているでしょう。

義政は、晩年、何かに取り憑かれたかのように、命尽きるまで一庭園に、己のすべてを注ぎ込みます。しかし、完成を待たずに54歳で亡くなってしまう。

今回で4回目の参拝となる銀閣寺。完全修復が終わった銀閣寺を見ながら、自分の心の中にあるわびさびの美的感覚と思想を感じていました。時空は超えても、今でも、義政の美意識は受け継がれ、私たちの中で生きています。義政は今日も銀閣の境内で、訪れる人に美的感覚とその思想を伝えていると思うのです。

作成日:2012年2月13日 屋根裏の労務士

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