コラム Column

「最後の審判」

上野の国立西洋美術館で、ミケランジェロ展を見てきました。ミケランジェロの作品は、彫刻やフレスコ画が中心です。持ち出しが、物理的に不可能なため、展覧会を開催することは、世界でもめったにありません。

私は、ミケランジェロ展の開催が決まってから、ずっと開催を待ち焦がれていました。9月の初旬に開催されてから、9月中に既に2回、ミケランジェロに会いに、足を運んでいます。

ミケランジェロの彫刻で、有名な作品と言えば、ダビデ像。ダビデ像は、緊張と興奮、そして決意に満ちた人間の感情。それらの感情に伴う、繊細な筋肉ひとつひとつのが、伝わってくるような彫刻作品です。見事に、人間の肉体美を表現しています。

解剖学の知識に長けた、ミケランジェロ。小さな筋肉のわずかな動きであっても、見逃さずに正確に描き、威圧感と生命力に満ちた作品に完成させています。

今回の個展のメインを飾る、「階段の聖母」。それは、ダビデ像のような肉体美を追及する作風ではありません。ミケランジェロが得意とした、もう一つの天才の表現。

  • 「我が子を想う聖母の愛」。

ミケランジェロの名を揺るぎないものにしたのはサン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ像」。「ピエタ像」は、十字架から降ろされたイエスを抱く、聖母マリアの彫刻です。ミケランジェロは、数点のピエタ像を遺しています。いずれの作品も、「我が子を想う聖母の愛」が見る者に、伝わってくるような作品。

今回、日本にやってきた「階段の聖母」。ミケランジェロが、15歳ぐらいに手掛けた初期の作品。「我が子を想う聖母の愛」が、伝わってくるような作品です。聖母の表情は、「我が子を産んだ母の喜び」と、その子の「悲惨な運命を予知した悲しみ」を併せ持ったかのようです。

今回の展覧会で、心を惹きつけられたのが、もう一つの下記の展示品。

  • 「最後の審判」に関する展示品。

「最後の審判」は、ミケランジェロが晩年に、構想から7年の歳月を費やして描いた渾身の大作。縦14.5メートル、横13メートル。登場人物は、約400人。「教皇選挙」のコンクラーヴェを行う、カトリックでもっとも神聖な場。

そこに、やり直しの効かないフレスコ画で、大作を描いているのです。「神の如き」と称された、ミケランジェロにしか出来ない偉業でしょう。

本物は、もちろん、システィーナ礼拝堂に描かれている巨大障壁画。持ち出せるわけがありません。今回の個展で、展示されていたのは、「最後の審判」を描くために書かれた下絵素描。それと、ポスターのようなイメージ画。加えて、システィーナ礼拝堂の障壁画と天井画を4Kカメラで撮影した映像です。しかし、それらだけでも、「最後の審判」の迫力が十分に伝わってきました。

約400人の登場人物のもつれ合う人の群れ。それらを、まるで、一つの運動として捉えたような有機的な構図です。写実的な表現方法を超えて、より、自分の直観的な美意識を追及していく、マニエスリムの先駆けとなった作品。これまでの宗教画とは、異彩を放つ力で見る者に迫ってきます。

ミケランジェロは、非常に難しい性格だったそうです。教皇ですら、応対するのが難しく、作品を依頼するのにも、ひと苦労したそうです。しかし、ミケランジェロは、一度、依頼を引き受ければ、仕事は、投げ出すことはなく、持てる力のすべてを注ぎ込んで、最後まで作品を完成させます。

ミケランジェロには、自身の内にある気高いプライドだけではなく、そのプライドに裏打ちされた、芸術家として多大なる信頼と信用が周囲からありました。

自らを画家ではなく、彫刻家と自負するミケランジェロ。当初、システィーナの天井画も障壁画の依頼も断っていました。聖なる場所の作品依頼。一度引き受けてしまえば、途中で投げ出すことは出来ません。教皇の熱意に負けて、渋々、仕事を受けます。ぶつぶつと文句を言いながらも、制作に取り掛ります。それでも、ミケランジェロに依頼さえすれば、依頼者は、この上なく、頼りになるのです。

巨大作品には、通常、助手をうまく使って、仕上げるのが常套手段です。ラファイロなどの大芸術家も、助手を使って、障壁画を描いています。しかし、孤高の天才は、細部に対しても、作品に、強いこだわりを持っていました。

当初、助手を使いましたが、すぐに辞めさせてしまいます。たった一人で助手も使わず、巨大障壁に、細部にいたるまで、こだわりを持って、作品を完成させるのです。

ミケランジェロは、「最後の審判」の中に自分の姿も描いています。皮を剥ぎ取られ、天国にも行けず、若返ることも出来ない。罪深く、再生もされないということを表しているそうです。まるで、己の人生の罪におののきながら、作品を手掛けていたのが、伝わってくるようです。しかし、自分の姿を「最後の審判」に描いたのはそれだけではないと思います。

  • 皮を剥ぎ取られて、ボロボロになったその姿。

それは、「最後の審判」という大作を仕上げ、精魂が尽きた自らの姿。更に言えば、大作を依頼して仕事を受けるにあたり、精魂が尽き、ボロボロになるまでやり切るという取り掛かる前の自分自身の覚悟と決意。そんな芸術家としての内にある、プライドがあったような気がするのです。

やり直しの効かないフレスコ画で聖なる場所に、己の持てるすべての力を捧げて、大作を完成させやり遂げるという覚悟と決意。己の魂を削りながら、その一筆一筆に渾身の力を込めてやり切り、精魂が尽きた姿。

その姿こそ、「最後の審判」における自画像であり、ミケランジェロという芸術家の魂、そのものであるような気がするのです。

作成日:2013年9月23日 屋根裏の労務士

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