『暴力を正当化させる論理』!
同校の教員総入れ替え人事を教育委員会に要求。さらに、体育課の入試試験の中止を求める事態になっています。
一方で、教育には、体罰を必要悪とする意見があるのも事実。今回の事件を受け、体罰について賛否両論があがっています。この事件の報道を目にしたとき、私は、次のことを感じていました。
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『勝つことへの使命感』は、自分を見失わせる。
今回の事件を起こした教師は、自分が見えなくなっていたと思います。30発から40発も殴ったということは、明らかに、常軌を逸しています。しかし、『勝つことへの使命感』、『勝つことへの正義』が、自分の中に下記の論理を作り出し、自分を見失わせるのです。
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『暴力すら正当化させてしまう論理』
「こんな暴力的で人格を無視したメチャメチャなやり方では、勝利という良い結果が出るはずがない」と思いたいところです。しかし、現実では、メチャメチャなやり方で、勝利という結果を得ることが、多分にあり得るのです。
さらに、勝利という力は、絶大。間違ったやり方だと周囲もわかっているのに結果を出して、勝利を得ているという状況に、誰一人として、口を出せなくさせてしまうのです。結果として、間違ったやり方は、正義として正当化されてしまうのです。
今回のような自殺という最悪な事態にいたるまで、勝利を得た手段は、野放しにされ、誰にも止めることが出来なくなるのです。
恐ろしいサイクルです。
実は、この恐ろしいサイクルは、今回、問題が起きた高校に限った、特別のことではないような気がします。人間の心中には、程度の差こそあれ、潜んでいる危険性だと思うのです。それが、組織となり、集団となると、罪の意識は、うすめられ、個人ではほとんど罪悪感もなくなってしまう。
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行き過ぎているとわかっているのに、
止まらないし、止められない、勝利という状態。
今回の事件が、警報をならす意味は、何かとても大切なことだと思うのです。
作成日:2013年1月21日 屋根裏の労務士