「素のままの自分で」
今回、12月の繁忙期に、時間をつくりわざわざ郷里に帰ったのは下記のためです。
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小学生の時からの親友に会うため。
「親友」はありがたい。特段、用事がなくとも、定期的に会っていなくとも。何の理由もなしに、いつでも会うことができる。振り返ると、彼と最後に会ったのは、もう覚えていないくらい前。毎年、郷里に帰る度に、彼に会いたかったのですが、日々の慌ただしさの中で、会えていませんでした。
日々の現実は、ドラマや映画の様ではありません。他人同士が、偶然、バッタリ会ったりはしないでしょう。地元で生活をしていても、旧友との再会。同窓会にでも参加しない限り、めったに無いそうです。
電話での連絡は、お互いに何度かしていました。その都度、お互いに行き違いになり、会うことが出来ていませんでした。今回の再開は、1年前から約束しての実現でした。
年末・年始は忘年会と新年会のシーズン。定期的にお会いする友達もいます。そんな久しぶりにお会いする友達と合いながら、下記のことを考えたりもしています。
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「親友」とは何か?
「親友」を定義することは、とても、難しいと思います。ひとつ言えることは、下記のことです。
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「親友」は、つくろうと思って、つくれるものではないこと。
それは、間違いないような気がしています。長い時間を共有したり、時間は短くても、ある時に、かけがいのない共通の目的を共有したり。お互いに影響しあい、ともに成長をした人。
そんな大切な時間をともに過ごし、何か言葉では表せない、共通した価値観を、ともに、わかち、持っている人。それが「親友」だと思います。
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何か自分に影響を与えてくれた人。
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気が付いたら、自分の中に、いた人。
人間関係は、定期的に会っていないと、その関係自体が、切れてしまう場合も少なくありません。何か、意図的に仲間意識を形成するために、集まること自体を目的にして、特定のグループや集まり、勉強会と称するものに、参加していた時期もありました。
何か広義な意味での強制性を持って、意図的に仲間意識を共有していたのです。しかし、このような集まりや仲間意識。どこか不自然で、無理があるような気がしています。
時間の力とともに、その関係は風化。自然消滅していくことが、多いような気がしています。それに、その集まりの中に、身をおいていたとしても、人間が潜在的に持つ、自分自身の孤独が癒えるわけでもありません。
「親友」との関係。時間の力でも、風化しない人間関係です。そこに、何か優越意識があったり、損得勘定や打算的な意識はありません。
考えてみると不思議なのですが、どこかのグループに、帰属しているような感覚がないのです。そして、「素のままの自分」で、いられるのです。何も飾ることも無い、ただ一人の人間としての「素のままの自分」で。
上手く、言えないのですが、そんな原始的な「素のままの自分」の中に、「親友」の存在が、あるような気がするのです。そして、「親友」の中にも、自分がいる。そんな気がするのです。
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自分の中に、「親友」いて、
「親友」の中に、自分がいる。
久しぶりに会った、「親友」との再会。久しぶりの再開の中に、そんな感覚を感じていました。
そして、それが、たとえ、ビジネスの関係であっても・・・。
他の人の人生の中に、何か僅かでも、自分の存在があったとしたら、これ程、嬉しいことは無いと思うのです。
何も飾ることのない、「素のままの自分」で。
作成日:2013年12月16日 屋根裏の労務士